富士そば会長:丹道夫の経歴とプロフィール!年商100億円の「ホワイト企業」経営方法とは?


皆さんご存知の「名代富士そば」が2017年人気そばチェーンランキング1位を獲得したのをご存知ですか?

確かに東京の至るところにあり、気軽に入れて気軽に食べられ重宝される立ち食いそば店ですよね。

そして年商がなんと100億円もありかなりの「ホワイト企業」なのだそうです。

そんな「富士そば」を創業した丹道夫さんとはどのような経歴の持ち主で、どのような経営方針で「富士そば」を成長させホワイト企業へと導いてきたのかまとめてみました!

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丹道夫氏のプロフィールと生い立ち

出典:https://useful007.com

名前:丹道夫(たん・みちお)

生年月日:1935年12月15日

出身地:愛知県名古屋市

出身高校:愛媛県立西条高等学校農業科(定時制)中退

                         福島県立湯元高校(夜間部)中退

                         愛媛県立西条高等学校(定時制)卒業

専門学校:東京栄養食糧専門学校卒業

 

丹さんは1935年に名古屋で生まれますが、生後すぐに父親が死去したため母親の実家がある愛媛県西条市に転居します。

母親は息子を育てるために愛媛で芸者として座敷に上がり、丹氏が4歳の時に17歳年上の丹高助と再婚します。

義父の高助氏は現・西条市で山林の立木を測定する仕事の他に借家業営み裕福で、再婚当初は丹氏に対しとてもやさしかったそうですが、弟の誕生と共に激変し重労働を課すようになったそうです。

やはり「血は水よりも濃し」ですね。

 

丹氏の母親は丹氏に十分な教育をさせるために再婚されたそうですが、弟が生まれてからは川に行って風呂の水汲み、山に入って蒔きを拾ったり等、連日連夜重労働が続きました。

病弱な母親も苦労したそうですが、義父は治療のためのお金は一切出さなかったそうです。

そのため自分の指輪や帯留めを売って工面していたそうです。

結果、自然と「義父のもとから早く独り立ちしたい」という強い思いになりました。

 

こんな仕打ちを受けていたら必然とそうなりますよね。

そして、自分でお金を稼いで母親を助けたいという想いが強くなると思います。

 

丹道夫氏の経歴

丹氏は母親の苦労の末に入学させてもらった西条高等学校農業科(定時制)に通うも1学期で中退します。

その後、義父の勧めで八百屋に年季奉公をしますが長く続かず、職を転々とし、東京・福島・愛媛で行ったり来たりを繰り返します。

その間、複数の職を転々とします:

・八百屋

・ガソリンスタンド

・工事資材運搬者の運転手

・杭夫

・印刷会社

・新聞配達

・衣類の行商

・病院栄養士

・料理学校の勧誘

・西条で料理教室を開講 

上記の間に2つの高校と1つの専門学校に通い、3度の上京も果たしていました。

その間、薄給に嫌気がさしたり、丹氏が病気に倒れ帰郷し療養に専念せざる状況に陥ったり、面接を受けるもうまくいかなかったり、様々な苦労も経験され結果転々とされていたようです。

ただ専門学校を卒業し栄養士となった後は病院栄養士など資格を生かした仕事が中心となります。

 

そんな中、義父の高助氏がおなくなりになり、帰郷を余儀なくされます。

 

愛媛に戻った丹氏は料理教室を開くもすぐに行き詰まり、4度目の上京を試みます。

今度は「もう失敗は許されない」と意気込み、栄養学校の恩師の紹介で食品販売会社で就職しお弁当を作る調理の仕事をはじめました。

 

その後の経歴は次の通りです:

・弁当屋勤務

・工場向けの弁当屋として独立(東栄給食センター)

・1964年、不動産業の共同経営に着手

・1965年、巨大なバーのチェーン経営に着手

・1966年、渋谷に「そば清」出店(2016年に閉店)

・1967年「そば清」24時間営業開始

・1972年共同経営から独立し、「ダイタンフーズ」設立

                  「そば清」を「富士そば」に屋号変更

・丹まさととして作詞家デビュー 

時代背景から日本も戦後復興で大変な時代で丹氏もかなり苦労され実に様々な職を転々とされました。

そして4度目の上京にてやっと料理の道で落ち着きました。

やっと天職に巡り合えたというところでしょうか。

 

丹道夫氏が独立から「富士そば」の事業家へと至ったまでの詳細

丹氏は経験を積んだ結果、栄養学校時代の知り合いからの誘いで独立を決意しこれを機に愛媛から母親を呼び寄せます。

愛媛の家を売り、そのお金で埼玉県蕨市に家を購入し、その隣に4.5坪の弁当店「東栄給食センター」を開業し、これが成功をもたらします。

 

その後仕事仲間から不動産業へ誘われ、弁当屋を弟に任せ、弁当屋から捻出した資金を元に那須高原の別荘地の土地を売る会社を共同経営します。

一時期は倒産寸前まで追い詰められましたが、当時の不動産ブームの波に乗ることができ、月商30億円社員数1200人の大企業に成長させました。

続いて巨大バーのチェーン店も手掛け、こちらは1日の売上が1億円を超える成功を収め、丹氏は青年実業家へと変身します。

この時期は「月収500万円、美酒美食におぼれた」こともあったそうです。

当時の500万円なので、今だともっとすごい金額なんでしょうね。

 

ですが丹氏、当時を下記のように振り返っておられます。

「だけど、僕は途中で怖くなったのね。こんな商売はいつまでも続くわけがない、と思った。だって、それまでコーヒー一杯飲んでも『ああ、あのお金があったらなあ……』と4日間反省するくらい、お金に不自由していたこともあったんですから。こんな甘い人生はありえない」

丹氏の今までの経験からでしょうか、もしものことがあってもせめて役員4人は食べていけるようにしようと立ち食いそばの店「そば清」を1966年に始め、4店舗程構えます。

 

そして1971年には不動産業から足を洗い、1972年に、タイタンフード株式会社を設立し、「そば清」から「富士そば」に名称を変更し立ち食いそばの経営に専念されます。

現在「富士そば」は日本一のそばチェーンになり、国内外合わせて147店舗展開しています。

国内では東京23区内に105店舗、23区外に11店舗、埼玉8店舗、千葉6店舗で合計137店舗。

海外では台湾に4店舗、フィリピン5店舗、シンガポール1店舗で計10店舗となります。

そして年商は100億円を超えています。

 

こちらが台湾の「富士そば」店舗の画像です。

丹氏は弁当屋の成功から、畑違いの不動産業でも成功を収められました。

そしてその後は立ち食いそばの経営まで。

丹氏、経営能力にかなり長けていたのですね。

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「富士そば」の成功の秘訣

この成功の秘訣は恐らく日本で初めて24時間営業に踏み切ったそば屋だからではないでしょうか。

1972年と言えば、今日では24時間営業の代名詞とも言えるコンビニ「セブンイレブン」が日本に登場する2年前です。そのセブンイレブンも当初は名前の通り営業時間は朝7時から夜11時まででした。

そんな中、1972年に丹氏は「富士そば」新宿本店の24時間営業に踏み切ります。

店舗の物件は24時間借りているわけですから夜中に遊ばせておく手はないと考えたようです。

深夜の人件費は昼間の20%増しですが、電気代、ガス代はそんなに増えることはないと計算されました。

 

実際にオープンしたところ、客入りは想定以上でした。

一番のお得意様はタクシーの運転手さん達で、深夜に手頃な値段で食べられる店があまりないため「富士そば」の評判は口コミで瞬く間に知れ渡り、その後他の店舗も同様に24時間営業へと切り替えられました。

 

もちろん営業時間のみではなく、丹氏は「富士そば」で使われるダシ店内も綺麗かつ清潔に保つことに徹底し、それも現在の成功につながっています。

ですが、コンビニも現在の24時間営業を始める前からの立ち食いそば24時間営業は、かなり画期的だったと思います。

そしてその時代のニーズにも応えていたのでしょう。

丹氏は先見の目を持っていたのでしょうね。

 

丹道夫氏の「ホワイト経営」とは

慢性的な人手不足と低賃金でブラックなイメージが強い飲食業界ですが、「富士そば」を展開するダイタングループは昨今アルバイトにもボーナス年2回出し退職金も支払う「ホワイト企業」として注目を集めています。

しかもこの制度は40年前から導入しているそうです。

アルバイトにもボーナス&退職金ってまず聞いたことがありませんよね?!

 

そして社員はほとんどがアルバイト出身ですが、上に行けるチャンスは全員に転がっているそうです。

店長、係長を経験した後は一気に常務に昇格し、事業会社のトップとして複数店舗の責任者になれるという企業組織を形成します。

常務になれば月給55万円のほかに報奨金も付けるという破格の待遇にします。

驚きですよね!!!

お金を出さずに常に人手不足で不安定な状態になるか、ボーナスや報奨金をどんどん出して安定しているのとどちらが得か、経営的には悩みましたが、安定しているほうがいいだろう。

この考えのもと、情報の誤伝達を防ぐため、課長や部長といった中間管理職を省き、7つの事業会社のもと各社が独立・競争しながら店舗運営をし、自己責任で経営するという「競争原理と自由」を体現したシステムを確立しました。

社長は口出しをせず月一で常務たちと会議をして食事して終わらせます。

そして現場の業績が上がればバックヤードの従業員も恩恵を受けられるように、各事業会社の「伸びしろ」によって報奨金の差も付けることでモチベーション向上を図りました。

金銭的なインセンティブのみではなく、仕事に対する「やりがい」も従業員で見つけてもらうことでダイタンホールディングスの「富士そば」の売上に貢献してもらっているようです。

 

海外展開を進めているのも従業員のモチベーション向上が主な狙いのようです。

よその立ち食いそば屋とは違って、将来は海外に行って管理職として伸びることができるという夢を持って欲しかった

と丹氏は語っています。

 

丹氏自身、複雑な家庭環境を経て、職を転々としながら現在の成功をつかみ取った分、金銭的な成功だけが全てではないことを実感したのと同時に、何が人を動かすのか、人は何を望んでいるのかも悟ったのでしょう。

だから金銭的なインセンティブをダイタンホールディングスで働く社員に与えると同時に、やりがいを与え、退職時しても自分で自立できる場も提供する。

社員のことを大事に考えているから「ホワイト企業」と称されるのではないでしょうか。

 

仕事は金銭的な面も大事ですが、1日の7-8時間を仕事に費やしている以上、「仕事に対するやりがい」も大きなファクターになっていると思います。

丹氏はそこを十分理解されて経営されているのですね。

 

まとめ

壮絶で波乱万丈な人生を歩まれてきた丹さんですが、独立以後は大きな成功を収められてきました。

そして現在、丹氏の創業されたダイタングループはホワイト経営で知られ、社員のやる気も高くその結果年商100億円という数字に結びついています。

社員こそ内部留保(企業の蓄え・財産)。企業は人なり。

良い社員がいなければ会社なんて伸びない。僕はそう思うなぁ。

と、語っています。

まさに丹氏の壮絶な人生を歩んでこられたからこその心得なのでしょう。

そしてこのような経営者が増えていくといいですね。

 

最後までお読み頂き、ありがとうございました♫

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