杉原千畝とはどういった人物で生い立ち、経歴や結婚歴は?なぜ国に背いてまでユダヤ人を救ったの?


2019年1月28日の『世界ナゼそこに?日本人~知られざる波乱万丈伝~』の好評企画「日本人偉人伝説」にて「杉原千畝」さんが取り上げられます。

ご存知の方も多いと思いますが、「杉原千畝」と言えば、第二次世界大戦中、ナチス・ドイツによる迫害からユダヤ人を救うため、国に背いて大量のビザ(通過査証)を発給し、避難民を救ったことで知られています。

その数なんと6,000人にものぼり、「東洋のシンドラー」とも呼ばれています。

 

当時の日本は「大日本帝国」として知られ、日本、ドイツ、イタリアで同盟関係にありました。

従って、史上最悪級の戦争犯罪を行っていたナチス・ドイツを支持してたことになります。

 

そんな「大日本帝国」の支持下で働いていた杉原千畝さんはなぜ国に逆らってまでユダヤ人にビザを配給していたのでしょうか。

そして杉原千畝さんとはどのような人物なのか、彼の生い立ちや経歴を調べてみました。

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杉原千畝のプロフィールと生い立ち

出典:Wikipedia

名前:杉原千畝(すぎはら・ちうね)

生年月日:1900年(明治33年)1月1日生まれ

出身地:岐阜県武儀郡上有知町(現在の美濃市)

死没:1986年7月31日(満86歳没)

出身校:早稲田大学高等師範部英語科(現:教育学部英語英文学科)予科中退

職業:外務省職員(1924年~1947年)

受賞:諸国民の中の正義の人(1985年)、ポーランド復興勲章(2008年)

杉原千畝氏は1900年1月1日に、岐阜県武儀郡上有知町(こうずちちょう、現在の美濃市)に父・好水(よしみ)と母・やつの次男として生まれました。

 

幼少期

杉原氏はごく一般の環境と家庭の中で生まれ育ちました。

父・好水(よしみ)は税務官吏で上有知町の税務署に勤めていましたが、杉原氏が生まれた後、父の仕事の関係で引越し、転々としていたようです。

そのうち父・好水は当時日本統治下の朝鮮の京城(現在のソウル)に赴任していた父は、旧制愛知県立第五中学(現・愛知県立瑞陵高等学校)を卒業した杉原千畝少年を京城まで呼び寄せ、再度家族で一緒に暮らしはじめます。

父・好水は成績優秀な杉原氏が京城医学専門学校(現・ソウル大学校医科大学)に進学して医師になることを望んでいたようですが、医師になるのが嫌で京城医学専門学校の試験では「白紙答案」を提出して「弁当だけ食べて帰宅」したようです。

この時代に親に逆らってこのようなことをする子供はなかなか居なかったのではないでしょうか。

面白いですし根性がありますね!(^m^ )クスッ

大学時代~外交官になるまで

杉原氏は英語を学び英語の教師になりたかったため、自分の夢を追って早稲田大学高等師範部英語科予科に入学します。

しかしながら、父親の意に反した進学だったため、家庭からの経済的支援は得られず、たちまち生活苦に陥ります。

そこで早朝の牛乳配達のバイトを始めますが、それでも学費と生活費を賄うことは出来ません。

 

そんな中、ある日杉原氏は図書館で偶然地方紙の「外務省留学生試験」の掲示を目にします。

受験資格は旧制中学卒業以上18歳~25の者でしたが、その他に法学・経済・国際法から外国語2ヶ国語に精通しているという旧制中学の学習内容とはかけ離れている募集内容。

杉原氏のように大学在籍者や旧制高等修了者以外の合格は難しいものでした。

 

それから杉原氏は大学の図書館にこもり、連日「ロンドンタイムズ」「デイリーメール」を初め、数々の雑誌を片っ端から読み、猛勉強します。

そしてこの努力の甲斐があり、見事「外務省留学生試験」に合格し、ロシア語研修生として人生の方向転換をします。

 

191910日露協会学校(後のハルビン学院)に入学し、11には早稲田大学を2年生で中退し、外務省の官費留学生として中華民国のハルビンに派遣され、ロシア語を学びます。

出典:www.spc.jst.go.jp

この募集では杉原氏が学びたかった英独仏語の講習生募集は行われず、ロシア語のみだったそうです。

従ってロシア語の選択は杉原氏の選択ではなく、今後ロシア語の重要性が大きくなると判断されていたためでした。

学生の過半数は外務省や満鉄出身者で、当時杉原氏は三省堂から刊行されていた「コンサイスの露和辞典を二つに割って左右のポケットに1つずつ入れ、暇を惜しんで単語を1ページずつ暗記しては破り捨てていく」といった独自の特訓でロシア語を習得していったそうです。

 

ロシア語は自分の選択でなかったにしろ、恐らく杉原氏は幼い頃から英語というよりは海外に興味があったのではないでしょうか。

もちろん経済的困難な状況でもありましたが、海外に対する格段の興味があったからこそ「外務省留学生試験」においても努力できて見事合格したのだと思います。

そして面白い勉強方法ですよね。

ページを暗記して破り捨てるにはまずそのページを完全に暗記している必要があります。

頭が良かったのもそうですが、暗記力も人一倍あったのでしょうね。

 

この努力と生来の語学の才能で4ヶ月後には日常会話に困らない程にロシア語が上達されたのだとか・・・。

ロシア語ってものすごい難しいと聞くのですが、4ヶ月で日常会話が困らないくらいになるって人間業じゃありませんよね?!(;・∀・)ハッ?

 

 

そして1920年(大正9年)12月~1922年(大正11年)3月まで陸軍に入営し、陸軍少尉にまでなります。

1923年(大正12年)3月には日露協会学校特修科を修了し、生徒から教員へと、教える側に転じます。

 

その翌年1924年(大正13年)に外務省書記生として採用され、日露協会学校、ハルビン大使館二等通訳官などを経て、1932年(昭和7年)に満州国外交部事務官に転じます。

 

1927年(昭和2年)には杉原氏が中心となって『ソヴィエト聯邦国民経済大観』という調書をまとめ外務省欧米局が刊行しますが、その出来栄えの素晴らしさで省内をあっと言わせたそうです。

杉原氏の持ち前の頭の良さと努力で、26歳の若さにしてロシア問題のエキスパートとして頭角を現し、外交官として活躍されていきます。

 

こちらがハルピン時代ハルピン時代ロシアの専門家として頭角を現した杉原氏の画像です。

その後

こちらがおおまかな杉原千畝氏の経歴のまとめになります。

明治33(1900) 
  岐阜県加茂郡八百津町に生まれる
大正 8(1919)年
  早稲田大学高等師範部英語科予科終了 英語科本科入学
  外務省留学生試験合格 外務省入省
  外務省ロシア語留学生として満洲ハルビンへ
大正12(1923)年
  日露協会学校(後のハルビン学院)特修科終了
大正13(1924)年
  外務書記生として在満洲里領事館勤務となる
  在ハルビン総領事館勤務となる
昭和 7(1932)年
  北満特派員公署事務官として満洲国外交部へ移籍
昭和 9(1934)年
  同外交部政務司俄(ロシア)科長兼計画科長
昭和10(1935)年
  外務省に復帰、情報部第一課勤務
昭和11(1936)年
  外務書記生として在ペトロパブロフスク総領事館勤務
  二等通訳官として在ソヴィエト連邦大使館勤務
昭和12(1937)年
  二等通訳官として在フィンランド公使館勤務
昭和14(1939)年
  副領事(領事代理)として在リトアニア領事館勤務
昭和15(1940)年
  日本経由で第三国に渡航目的のユダヤ人難民に通過査証発給
  在プラハ(プラーグ)総領事館勤務(総領事代理)
昭和16(1941)年
  在ケーニヒスベルク総領事館勤務(総領事代理)
  一等通訳官として在ルーマニア公使館勤務
昭和18(1943)年
  三等書記官として在ルーマニア公使館勤務
昭和22(1947)年
  帰国 外務省退職
昭和44(1969)年
  イスラエル政府より叙勲
昭和60(1985)年
  イスラエル政府より「諸国民の中の正義の人賞」受賞
昭和61(1986)年
  逝去(享年86歳)

杉原氏は今で言うノンキャリア組なのでキャリア組と比べたら出世はかなり遅かったようですが、それでもロシア問題のエキスパートとして脚光を浴びた訳で、杉原千畝氏が大変優秀な外交官だったことは疑いようがないですね。

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杉原千畝の結婚歴

実は杉原千畝氏には離婚歴があります。

今で言うバツイチです。

 

1924年に白系ロシア人のクラウディア・セミョーノヴナ・アポロノワさんと結婚していましたが、1935年に離婚されます。

 

そしてこの時期に杉原氏は正教会の洗礼を受けています。

洗礼を受けるということは正教会の信者として正式に受け入れる、改宗するという意味も含まれているかと思います。

当時の日本人が外国人と結婚すること自体稀な時代に、正教会へ改宗するということもまた滅多になかったと思います。

それほど杉原氏は日本社会の型にはまらない、稀有な存在だったのではないでしょうか。笑

 

離婚の原因は当時関東軍が杉原氏にスパイになるよう強要されていたのを拒否したのが要因のようです。

この拒絶に対し、関東軍は「クラウディアがソ連側のスパイである」と噂を流し、これが離婚の決定的理由になったそうです。

様々な陰謀が蔓延した大変な時代背景が伺えますね。

そして離婚の際、クラウディアさん一族に今までの蓄えを全て渡し、無一文になり日本に一度戻ってこられたそうです。

 

杉原氏の結婚歴ですが、帰国後に知人の妹である菊池幸子さんと結婚します。

そして菊池幸子さんとの間に4人程子供を授かったようです。

ただ、1度目の結婚・離婚のせいでかなり貧乏だったため、結婚式どころか記念写真も撮る余裕が無かったそうです。

 

関東軍はいい迷惑ですし、本当逆恨みってやつですよね。

 

杉原千畝はなぜ国に背いてまでユダヤ人を救ったの?

一度は日本に戻り、家族を持った杉原氏でしたが、1936年に再度海外へ出られます。

実は1936年にモスクワ大使館への赴任の辞令があったのですが、ソ連は杉原氏のビザの発行を拒否し、翌年フィンランド・ヘルシンキの日本大使館へと赴任されます。

外交官の入国ビザが拒否されるということは異例のことですが、北満鉄道譲渡交渉で見せた杉原氏の手腕をソ連側が警戒したためと見られています。

そこまで外交に優れていたんですね。

 

そして1939リトアニアの首都・カウナス日本領事館領事代理に任命され赴任します。

もともとカウナスには1人も日本人がおらず、本来の領事館ではなく国際情報収集として領事館が開設されたようです。

 

ちなみに現在のリトアニアの首都ヴィリニュスVilnius)ですが、1920年にヴィリニュスがポーランドに併合されるとカウナス(Kaunas)(リトアニアの第2の都市)が臨時の首都となった背景があります。

杉原氏がカウナスに着任するとすぐ、ナチス・ドイツがポーランド西部に進攻し第二次世界大戦が始まりました。

そしてナチス・ドイツに迫害されていたユダヤ人達はリトアニアに逃亡し、各国の領事館・大使館からビザを取得しようとしました。

 

当時、反・ユダヤ人的な政策を取っていたソ連が各国に在リトアニア領事館・大使館の閉鎖を求めたため、ユダヤ難民達は業務を続けていた日本領事館に名目上の行き先オランダ領アンティルへの通過ビザを求め、殺到しました。

当時の日本の政府は下記のように杉原氏に指示を出していました。

「ユダヤ人に対しては、一般の外国人入国取締規則の範囲内において公正に処置する」

「通過査証は、行き先国の入国許可手続を完了し、旅費及び本邦滞在費等の相当の携帯金を有する者に発給する」

参照:http://kwww3.koshigaya.bunkyo.ac.jp/wiki/index.php/%E6%9D%89%E5%8E%9F%E5%8D%83%E7%95%9D%EF%BC%93

日本は前述の通り、ドイツと同盟関係にあり、ドイツからユダヤ人に対する迫害政策に協力するように再三求められていたようです。

それにも関わらずユダヤ人に対する中立的な政策を公式に取っており、上記の杉原氏への指示でも見受けられるように、と公平性が保たれているように一見して見えます

ですがこれは表向きはユダヤ難民を他の難民と公平に扱う中立さを装いつつ、通過ビザの発給を受けるためには十分な旅費を備えるなど規定の条件を満たす事を要求されており、この要求は他の難民と比べてもかなり高く設定されていたようです。

 

ユダヤ人難民の殆どはこの受給資格を欠いていたため、杉原氏は本国外務省にお伺いを立てますが、発給は許可されなかったと言います。

1940年7月18日に杉原氏は外務省に緊急のビザ発給許可要請をするも、翌日棄却されます。

その後、新内閣の発足後、松岡洋右外務大臣に直接、人道的なビザ発給の許可要請を再度行うも、7月23日には、親ドイツ派の松岡外相直々にヨーロッパ各国の大使館・領事館に「難民へのビザ発給は許可できない」という通告が発せられました。

それは杉原にとっては事実上の最後通告でもありました。

 

こうした政府方針、外務省の指示に背いて、1940年7月25日、杉原は日本通過ビザを要件の整わないユダヤ人たちにも半ば無制限に発給することを決断します。

ソ連政府や本国から再三の退去命令を受けながらも、杉原氏と妻の幸さんはベルリンへ旅立つ9月5日までおよそ1か月余りビザを書き続けたとされるています。

その間発行されたビザの枚数は、番号が付され記録されているものだけでも2139枚

また、日本領事館の閉鎖日が近づき、作業の効率化のため、途中から記録をやめたといわれ、家族を含めて少なくとも6,000人ものユダヤ人の国外脱出を助けたとされます。

そして下記が避難民が取った脱出ルートです。

出典:杉原千畝記念館

日本通過ビザを受け取った避難民は、シベリア鉄道を使いシベリアを横断し、ウラジオストクより敦賀に上陸し、その後日本国内を通過し、神戸横浜を経て世界各国に避難していきました。

 

杉原氏は自身のこの行動を下記のように語っています。

「私のしたことは外交官としては間違っていたかもしれないが、人間としては当然のこと。私には彼らを見殺しにすることはできなかった 」

「私に頼ってくる人々を見捨てるわけにはいかない。でなければ私は神に背く」

国に忠実な外交官である前に、杉原氏は1人の人間だったのを忘れなかったのですね。

 

もちろん杉原氏のこの素晴らしい行いは彼1人だけで行えたものではないでしょうし、この「国に背く」という決断の裏にはある人物との出会いがあったとも言われており、それが今回の番組にて明らかになると思います。

色々な事や出会いが無ければこの決断には到達しなかったと思いますが、その決断を杉原氏ご自身が下し、6000人以上の人の命を救った事実は変わりませんよね。

 

やはり型破りだった杉原氏だったから出来たことでもあるでしょうし、ご自身の信念を忘れない人としての強さもあったからの偉業ですよね。

杉原氏に関してはマスコミが作り上げたフィクションだと説く人も中にはいらっしゃいますが、もしそうであれ、戦時中に自分の信念に忠実になり人の命を救ったのは紛れもない事実です。

それはやはり尊重されるべきことであり、戦争に関することも含め、後生へちゃんと受け継がれていくべきものだと思います。

 

ちなみに現在、リトアニアの首都・ヴィリニュスには杉原千畝氏の記念碑が建てられています。ブログ主もリトアニアに観光に行った際、見てきました。

決して大きくはないのですが、杉原氏への感謝の言葉が綴られていました。

そしてそれを見て、同じ日本人として少し誇りに思いましたよ。

 

まとめ

いかがでしたか?

杉原氏の生い立ち、経歴、結婚歴、そしてなぜ日本からの支持に背いてユダヤ難民達に通過ビザを発行し続けたのかについてまとめました。

杉原氏は幼少の頃からかなり優秀だったのと同時に、少し型から外れていた感じですね。

だからこそ国の指示に反してもビザを発行し続け、退去するまで時間がある限りビザを発行し脱出ルートを作ってあげていました。

それほどまでに強い人間だったのですね。

 

杉原氏は1947年に帰国し、そのすぐ後に外務省を後にしているようです。

それが辞職だったのかクビだったのかは諸説ありますが、戦中戦後と大変な時代を生きてこられ、勇気ある行動で沢山の命を救った方でした。

杉原氏の行動から勇気や希望を貰える気がしますね。

 

長くなってしまいましたが、最後までお読み頂き、ありがとうございました♫


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