元タカラジェンヌ・真琴つばささんが、2018年9月18日(火)放送の「世界の村で発見!こんなところに日本人」でブラジルに暮らす元日本代表サッカー選手の祖母に会いに行きますが、おそらくこれは田中マルクス闘莉王さんの祖母、田中照子だと推測されます。
番組の予告を見ると、「「死んだ子を背負って助けを…」移民、戦争、泥の家!波乱の人生…その忘れ得ぬ大和魂に号泣!!」とありますが、田中照子さんの波乱の人生とは?
時代背景も考え田中照子さんの移民生活について少し調べてみました!
目次/Contents
そもそもなぜ日本人はブラジルへ移民したの?
なぜ田中照子さんがブラジルに渡った後の人生が波乱だったのかを知るためには当時の時代背景を知っている必要があると思います。
なぜ日本人がブラジルに移民する必要があったのか、そして移り変わる世界情勢がどのようにブラジルへ移民した日本人に影響していったのかを調べてみました。
ブラジルの背景:
当時の時代背景を考えると、ブラジルはアフリカ大陸からくる奴隷をコーヒー園などにおける農業労働者として重用していたものの、奴隷制度に対する内外の批判を受け1888年に奴隷制度を廃止します。
その後農業労働者不足に陥り、イタリアやスペイン、ドイツなどのヨーロッパ諸国から移民を受け入れ始めますが、奴隷と変わらぬ住環境や過酷労働、賃金・待遇の悪さのため反乱を起こします。結果、移民を中止し、ブラジルは再度労働者不足になります。
その後1892年にブラジル政府は日本人移民の受け入れを表明しますが、国交が無いためまずはじめに1895年に「日伯修好通商航海条約」が締結され、1897年に日本の公使館が設けられ、1908年に800人近くの日本人が初めてブラジルへ移民として渡ります。
日本の背景:
日本人移民の多くはアメリカ(特にカリフォルニア州)を中心に海を渡っていましたが、人種差別を基にした日本人移民排斥が激しくなり1900年日本政府はアメリカへの移民を制限します。
1904年に起きた日露戦争において、日本はロシアに勝ったものの賠償金は支払われることはなかったため、日本の経済は混乱し、農村での貧困が深刻化します。
その後、アメリカの移民受け入れ制限も強化された上に、オーストラリアやカナダ政府も受け入れを制限したため、日本政府は新しい受け入れ先を模索し見つかったのがブラジルだったのです。
日本には多くの貧困層がおり、その上子沢山でもあったので労働力が余っていました。
働ける場所は日本国内ではなかったので、海外で職を探したのです。
理論上はWin-Winの関係ですね。
ブラジルへ移民後の過酷な待遇
前述の通り、ブラジルでは奴隷解放後の労働力確保のために移民を受け入れます。
ヨーロッパ人の移民同様に日本人も元奴隷を使っていたコーヒー農園で契約労働者として働きますが、実態は奴隷と大差ないものでした。
ブラジルでの高待遇や高賃金を約束され、数年間ブラジルで働きお金を貯めて帰国するつもりだった日本人移民は貯金どころではなく、農園主が労働者を土地に縛り付けるために借金が増える一方でした。結果、夜逃げする日本人は多かったようです。
現に闘莉王さんのお爺様も、
「一儲けして、東京オリンピックを見るために里帰りするつもりだったんけど、ダメだった」
と仰っています。
家族して夢を見て海を渡ってきたけれど、お金には苦しんだことが伺えます。
コーヒー農園から逃れた日本人移民は自らの農地を取得し自作農となることを選択し、独立します。
綿や胡椒、お茶やジャガイモなどを作ったり、サンパウロを中心に日本人移民向けの商店や工場、医師を開業したりして数多くの日本人移民が成功します。
しかし、増え続ける日本人移民に対する人種差別感情や成功に対する妬み、さらに1930年代に入り満州事変や日中戦争など日本の対外侵攻が相次いだことを受けて、日本人移民に対する排斥の動きがにわかに高まります。
1930年に大統領に就任したヴァルガスが全ての移民のブラジルへの同化政策を進め、ブラジルの公立学校での外国語の授業を禁止する法令を下し、1938年には日本人学校の廃止が行われます。
さらにこの法令が拡大解釈され、公道で母国語を話した移民が逮捕されたりラジオを没収される事件も多発しました。
その後、第2次世界大戦が勃発。
1942年にはブラジルは連合国として参戦する事を決定し枢軸国との国交を断絶しますが、日本に宣戦布告したのは終戦直前の1945年6月でした。
同時期のアメリカとは違い、ブラジルでは日系人に対する迫害は起こりませんでしたが、戦時中は日本人移民及び日系人は大西洋沿岸都市から退去され一時的に強制収容所に収容され、内陸部の未開拓地に強制的に移住させられた人達も多かったようです。
また、その際職業を奪われたり資産の凍結、不動産を二束三文で余儀なく手放さなければいけなかった人も多数いました。
希望を持って未知の国、ブラジルへ家族で来たのに重労働の上余計に借金が増えるというのは本当に心が折れると思います。
それでもめげずに農業で成功を収め、品種改良をしながら後世も含む現地での貢献は素晴らしいです。
日本人特有の忍耐強さ、勤勉さ、真面目さが成功へと導いたのだと思います。
そういった成功を収めても、時代の流れには逆らえないものですね。
「同化政策」の導入や戦争勃発で再度苦難を強いられます。
度重なる苦難を生き抜いてきた闘莉王さんのお爺様・お婆様達はとてもたくましいのだと思います。
田中照子さんの経歴
番組予告にあるとおり、現在田中照子さんは90歳ですので、1928年生まれと推測できます。
そして5歳の時にブラジルに移民されていますので、1933年頃になります。
ちょうどヴァルガス大統領による同化政策が打ち出されたあたりですね。
ご両親と兄・姉・弟の6人家族でブラジルへ渡られたようです。
なんでもお父さんは腕の良い料理人だったようですが、道楽を重ね貧乏になりブラジルへ高収入を求めて渡られたのだとか。
こちらが田中照子さんの写真になります。

出典:http://saopauloshimbun.com
照子さんご自身がブラジルに渡られたのは5歳と子供なので適応能力は高く、ポルトガルの習得にはそれほど時間が掛からず、語学的な問題はあまり無かったと思います。
ですが日本語は日本語学校も廃止され、家族のみもしくは日本人コミュニティーのみで回りの目を気にしながら使用・習得したでしょうから精神的にも大変だったのではないでしょうか。
ご家族で移住されていたのが大西洋沿岸だった場合、内陸地へ強制移住を強いられた可能性もありますし、1930年代~戦後はかなりの苦労をされたと考えられます。
番組の告知には、「死んだ子を背負って助けを・・・」とあります。
これはブラジルでの生活が大変で、栄養が行き届かず弟さんが亡くなった時に弟さんのことをおぶったときのことのようです。
泥の家に住み、照子さんは7歳から農作業でご家族を助け、夜に読み書きの勉強をしていらっしゃったとのことです。
大変な生活の中、照子さんのご両親は日本の大和魂は絶対に忘れず子供達にも厳しく日本の心を教えます。
それが闘莉王さんのお父さん、闘莉王さんまで立派に受け継がれています。
戦争を経験され、様々な苦難を虐げられながら波乱の人生を歩んでこられた照子さん、9月18日(火)の番組では実体験を元にどのような壮絶なお話をされるのでしょうか。
まとめ
家族で未知の国ブラジルへ移民しただけでも大変だったでしょうが、日本の敵国となったブラジルで戦争を経験され、かなりの苦難と過酷な人生を送られたと思います。
それでもたくましく生き、暖かい家族に恵まれ、闘莉王さんは日本へ渡り帰化しサッカー日本代表で大きく貢献されました。
5歳でブラジルへ渡ってから一度、闘莉王さんのサッカーを参戦するために日本へは戻られた照子さんですが、孫の闘莉王さんが母国のためにプレーした姿は大層誇らしく映ったのではないでしょうか。
闘莉王さんも親そして祖父母の姿を見て世界レベルのサッカープレイヤーとして成長されました。
照子さんご夫婦の逞しく、忍耐強く、真面目に生きてこられた姿が闘莉王さんの人生にも大きく影響しているのではないでしょうか。
最後までお読み頂きありがとうございます♪
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